コンビニ弁当身体に悪い をどうしようか
コンビニ弁当は体に悪い、健康に良くないっていう噂がよくながれるけれど、そういう情報に対してどう反応しようか。
ちゃんと調べたことないから分からないけれど科学的根拠がある、ないに関わらず
そう言われると身体に悪そうな気がする
っていう感覚は多くのひとが持っていそうな気がする。
ジャンクフードがどうのとか添加物がどうのとかマーガリンはやばいとかビーガンがどうのとかっていう情報が今までにも飛び交ってたことがあって、そういう事前情報からの後押しも受けてそういう感覚が生まれていると思う。
結局のところ真実が分からないなら僕たちは自分の感覚を信じて行動を変える。
コンビニ弁当にしようと思い伸ばした手を引っ込めておにぎりやパンにしたり、スーパーの手作り弁当にしたり、お弁当屋さんの弁当なら大丈夫そうと思ったり。
今度はコンビニのパンやおにぎりは弁当同様身体に悪いって噂が出たり、どこどこの弁当はコンビニで管理される弁当より衛生上良くないとかそういうこと言い出して、またそれぞれ行動を変えていく。
個人だけじゃなくて企業側も行動を変える。ホントかどうか分からない噂だったとしても悪いと言われている部分を改良した商品を出す。
そうやっていくと結局だんだんより良い弁当が生まれていくから今良くないと噂されるクオリティの弁当を今後も一生食べ続けることにはならなそうだから(都合のいい憶測w)僕はこれからも躊躇なくコンビニ弁当食べまーす。
日々溢れるこれが良いこれが悪い情報を僕視点でどう処理しているかをコンビニ弁当を例に発表してみました。
食に関する情報はダイエットとか健康とかに絡めていろいろ出るけど基本的に僕は楽観的に見て行動を変えないことがほとんどな気がする。
コンビニ弁当は不滅だーーーーーー!
とは言ったもののそんなに頻繁にコンビニ弁当を食べていないことに気づいた僕よりお送りしました。
人のためが自分のため
自分のため、自分が好きなことさえ出来ていれば、自分がやりたいからやる、では限界がきてそれ以上動けなかった。
自分がやってて楽しいこと、好きなこと、ある程度分かっているつもり。
ただ、そのどれもに必ず飽きがくる。
自分のために何かをすると基本的にインプットになっていることに気づいた。
自分のためだけを考えるとインプットのみのこの先行き止まり状態になってずーっと便秘である事に気づいた。
胃も腸も満タンになったところにまだ詰め込もうとして何もする気が無くなってきた。
僕はアウトプットする場所を探している。
自分のためにアウトプットするというのはよく分からないと思った。
ということは僕の中に詰め込みすぎた何かは人のために放出するのが手っ取り早いかなと思い人のために何かをしてみようと思った。
便秘で苦しい自分を楽にしてあげるために人のために動く。
そうして放出して空っぽになる前にまたインプット。
それを繰り返して腹8分目を維持するのが一番いいのかなと思った。
自分のために動くというのは変わらないことだが僕の場合自分のためのインプットはできていたが自分のためのアウトプットが存在していなくて循環がおきていなかった。
これからは人のためが自分のためになることを利用してうまくアウトプットしていけたらいいなと思う。
成功者は人の役に立ちたいと思っていたか いろいろきいろの心の中
ちょっと前に、思ったことを書き始めて途中で「何言ってんだ」って思って放置してたやつを書き足して放出。
「何言ってんだ」って思いながら読んでね。
成功者とは、大きく人の役に立ち多くの人々に称賛され認められたものだとしたら、成功者の情熱は他人のためその一点に注がれたのか。
そんなことはないよね!
みんながみんなそんなにいい奴なわけない。
僕は「人が喜ぶ顔がみたいから」っていう気持ちだけで何でもできる気がしない。
成功者だって自分の興味の赴くままにやっていることが結果的に他人のためになったというだけだと思う。
だから人のために人のためにと変なエネルギーの使い方をするのは違うと思った。
人のために何かをするのが一番やりたいことならそうするのがいいけど、そうではないのにどこか他人からの評価のために時折変なエネルギーの使い方をしてしまうから困ったもんだ。
成功者という言葉に一歩近づきたいという欲はやはり僕の中にもある気がする。
だけどそれは、たいして腹は減っていないのに目の前に好物のドーナツがあったから手を伸ばす、それと同じただ欲に答えただけのような気がする。
人生まだまだこれからだけど欲を満たすだけの生活はなんとなくやばくなるような気がしている。
時には目の前のドーナツを今我慢することで得られる物もあるということに最近になってようやく実感してきた気がする。
他人から称賛されるには他人が何を求めているかを把握してそれに沿って自分を合わせることで上手くいくだろう。
しかしそれで自分がないがしろになるのなら自分に失礼だ。
自分もろくに満足させられないやつが成功者になろうとするのは順序が違うのだろう。
はあー、成功者になりたーい
時に現実だけではつまらなくなるから
生きていくんだから当然現実だって見る。
そう言ってる間に視界はあたり一面現実になってる気がする。
自分の理想の生活に一歩でも早く近づくために稼ぎ方を考えてぞの実現に急ぐ。
実際やりたいことのためにがんばってその実現に励むのはいいことだと思うけれど、それだけしかしていないと今日や明日が理想のための前振りみたいになってマジでつまんない。
久しぶりに映画を観ていて思った。
今回観た映画がそういうことを思い出させてくれるような内容だったとかじゃなくて、こんな風に映画みたいなカメラワークで自分を眺めて、明日も明後日も過ごしていくべきだなあって思ったってことです。
映画を見た直後の干渉に浸っている僕より
「暇だしやるか」を最強の原動力に
何をやってもとりあえず続かない、いわゆる三日坊主マン。
前にも三日坊主についてかんがえたことあるきがする。
小さいころから続けてきたこととかで「最年少~」って結果を残してる人とかをテレビで見たりすると大抵自分の三日坊主が良くないことのように思う。
ただ、僕はとっくに開き直っている。
三日坊主でいろいろなことが続かないことをどうにか活かして生きていくことにわりきったのだ。
大きな目標を立て意識高く生きていこうと決心したこともあったけどそれも三日坊主さ。
意識高く生きようとすると常に何かをやっていなきゃという謎の緊張感に襲われ、有意義なことができたという実感がないと無駄な一日だったということになってしまう。
その日が無駄だったかなんて結局自分の考え方次第だね。
なにをやるにしても有意義なものにしようと意識すると、一見良さそうだけど使命感でやっているだけであんまり楽しくなくなってくる。
だから三日坊主でだんだん離れていってしまう。
僕の場合、「よしやるぞ!」と意気込んだものは大抵続かない。
毎日じゃなくても「めちゃくちゃ暇でやることもないからやるか」ってやってるものは続くもんだ。
だから僕は最高に暇人になることを決めたのだ!
「するべき」「しなければならない」
を原動力にするのは今の時代にはもったいないのかもしれない。
いわゆる好きな事で生きていくってやつ?
暇に暇を重ね最後にたどり着いたところに本当にやりたいことがある!
という思想で当分は生きていくつもりです。
「やっぱりこの思想は違う気がするわ」
って思ったら報告するかも。
まあ、でもこの思想なら三日坊主の僕にも効果抜群な気がする。
だって何もしない暇を、肯定できるんだもん。
なんかよくわからない思想を発表するこんな記事を最後まで読んでくれてありがとう。
また暇で暇でしょうがなくなったらなんか書くね。
これからはむしろ意識して暇になろうと思う。
いろいろきいろ